HOME>コーカサスのケフィア>ケフィアの知識>ケフィアとの再会
私は、高齢化社会を迎えようとするわが国の食卓に、コーカサスの長寿社会を支えてい る発酵乳の一つケフィアを紹介することに意義を感じて、「家庭でケフィアを作ろう」と言う 運動を進めていました。食品としてケフィアが如何に優れているか、なぜ高齢化社会にケフィアが適しているかをケフィアニュースを通じて啓蒙していたのです。しかし、意に反してケフィアの普及は遅々として捗りませんでした。望野先生からお電話を戴いたのはそんな折でした。先生のお電話を聞いているうちに、挫けそうになっていた私の志が凛々と 蘇るのを感じました。私はケフィアニュースに執筆して戴くようお願いしたのでした。先生は快く承知してくださり、93年発行のケフィアニュース第3号に掲載させていただきまし た。(平成10年11月1日発行 ケフィアニュース別冊:望野先生を偲ぶ特集号より 中垣)
ケフィアとの再会
日本余暇工学研究所所長(当時) 望野 智
【著者紹介】
遊園地・遊戯施設の設計・施工・運営コンサルタント、万博などの各種イベントの展示館の設計・施工・運営指導や、「ゴジラ」などの映画の特撮など幅広く手掛けておられた様子であった。専門分野は勿論のこと、美術、演劇、音楽などの文化は言うに及ばず、経済、政治、社会問題、教育、子供の躾に至るまで話題は尽きなかった。また国際関係、特に日ソ親善には、個人として頭の下がるほどの時間と費用を惜しまずに努力されていることがよくわかった。
望野さんは、遊園地・遊戯施設の開発・設計でソ連の若い技術者のさまざまなアイデアを巧みに採り入れて実現化する才能にも恵まれていた。私は彼に依頼されて、「若い技術者」、「青年の技術」などのソ連の月刊誌の掲載記事を何度も翻訳することになった。遊園地で見かける「足踏みボートなどはその成果の一つである。
(平成10年11月1日発行 ケフィアニュース別冊:望野先生を偲ぶ特集号より 露和辞典編纂者、著述業 佐々木康隆)
私とケフィアとの初めての出会いは1968年5月、今を去ること25年前のことである。ノ ーウオスチ通信社東京支局長セルゲイ・ハーリン氏に案内されてモスクワを訪れた。
もちろん当時はソ連への観光ツアーはほとんどなく、私は家内と二人だけでモスクワからレニングラード、キエフ、ソチなどをまわったのであるが、事前に定められたコースを外 れることは一切許されなかった。街中を散歩するのは自由であるが、勝手に人家を訪ね ることは出来ない。本当はなるべく多くの人々と接触してナマの生活を体験したかったのであるが、結局は美術館やバレエなどを巡る窮屈な芸術鑑賞旅行となってしまった。そんなストレスを慰めてくれたのが、実は街頭で売っているピロシキとケフィアだった。
ロシアの民族人形マトリョーシカみたいなおばさんが「ガリャーチェ!、ガリャーチェ! (熱いよ!、熱いよ!)」と大声で叫びながら売っている揚げたてのピロシキを、まだ肌寒い街角で大勢のロシア人に混じって、「フーフー」とふきながら食べたその味は忘れられない。そして、旅行中食べなれない物を美味しくしてくれ、常に体調を整えてくれたケフィアだった。そもそもモスクワ料理に特別に美味しいメニューなどはない。シャシリク(串焼き肉)やボルシチ(スープ)などは高級な方である。自分の嗜好でメニューにないものを頼んだら、またメニューにあっても日頃あまり出ない高級品でも頼もうものなら、それこそ2 時間も3時間も待たされてしまう。野菜と言えばお化けのような大きくしかも大味の胡瓜 だけしかない。仕方無しに、目の玉のとび出るほど高価なカルフォルニア・オレンジを常時持ち歩いていた。
つまり、何処へ行っても食事の楽しさなど期待できない時、ある朝、可愛いウエートレス が「ケフィール ナーダ?(ケフィア要りますか?)」と聞いてきた。どうせ大したものでないだろうが、数が多いほうがいいと思って「ナーダ(要るよ)」と答えたところ、最先に出てきたのが大型のカップいっぱいに盛られたやや堅めのケフィアだった。一口食べた瞬間、 私たちは「あっ!ヨーグルトだ、これはうまい!」と一斉に歓声をあげた。後で知ったのであるが、これはヨーグルトなどは及びもつかないケフィア、すなわちロシア語でケフィール (Keфup)だったのである。物のたとえに「これぞ醍醐味」などと言うが、牛乳を煮詰めてゆくと、やがて酪となり、酥となって、最後にそれを精製すると醍醐となる。即ち醍醐味とは最上、最高の謂れであるが、煮詰めてゆくことは栄養を殺すことにもなる。ケフィアの近代的な甘酸感は、醍醐の甘味とは比較にならない妙味なのである。
レニングラードでは、バレェ団の通訳でその後度々来日したリディア女子のお世話にな ったが、私は持ち前の好奇心から、このケフィアについて根掘り葉堀り質問を浴びせかけた。彼女はそんなに知識がないとしながらも、彼女自信も大好物とあって、有識者から聞いてきたことをいろいろ話してくれた。コーカサスの長寿村の話をはじめとして、私が知っ たケフィア談義は到底紙上に書き尽くせるものではない。おかげさまで私達は、毎朝ケフ ィアによる快腸ぶりを語り合い、滞ソ生活は楽しいベストコンディションを保つことが出来た。
東京に帰ったら、この種の物、あるいは極似たものがあるだろうと思ったのが大間違いで、その後は金のワラジでケフィア探しをしたが、結局ヨーグルトの代理満足で終わって しまった。そこで時折の訪ソ旅行には思う存分ケフィアを食べ、益々好きになり、益々悩んだものである。ある朝、ソ連大使館内でクワスと言うロシア産の果汁を自動販売することになった。私は係りのロシア人に「ケフィールはないか?」と聞くと「ニェート(無い)」とぶっきら棒な返事、ロシア人が最も好むケフィア、モスクワで聞いた話によれば、高級官僚は毎日欠かさずこれを食べていると言うケフィアが、なぜ大使館に置いてないのか?、執拗な私の問い質しにたまりかねてか、ついに公使オコニシコフ氏が直接本国に問い合わせた結果を自分で知らせてきた。
内容は如何にケフィア菌が培養困難であるか、移導出来ないかを縷々述べたものであった。在日ソ連人さえ食べることが出来ないものならと、私はほとんど諦めていた。やがて旧ソ連の崩壊となり、私はその後訪ロを見合わせていた。そんなある時、友人 山崎由久博士(現川崎重工業株式会社宇宙機開 発主幹)が、所用でモスクワに行くが、何か旅への ロシアで販売されている最近のケフィア アドバイスがないかと聞いてきたので、私は何はともあれ不充分な食事事情を思い浮かべ、「朝食にはケフィアを食べなさい、有ればの話だが。」とケフィアに関する予備知識を授けてやったところ、帰国早々電話があり、如何にケフィアが有難かったかを長々と話してくれた。 その彼がある日、「ケフィアが日本にあった!」と知らせてきた。翌朝彼が届けてくれたのが、中垣技術士事務所から発売されている「高活性ケフィア菌」であった。かくして24時間後、私は久方ぶりに本物のケフィアと再会したのである。一口一口懐かしさを噛みしめ ながら、家内は「これから毎日、これを食べられるの?、ウソみたいね」とポツリ。私はすかさず友人佐々木康隆氏を呼んだ。在ソ生活の長かった彼は、現在、ロシア語辞典の編纂中で、日本でも数少ないロシア語学者であり、ロシア通、そしてケフィア党である。彼は 私のつくったケフィアを一口食べた瞬間「ウォト エータ ダー(これはまさしく)」とロシア語で叫んだ。 私はいま、毎日、親しい友人にケフィアをプレゼントしその話をしている。「自分の楽しさは人にも与えるべきだ」、これは70歳を過ぎた者の信条であろうと思うからである。既に何人かのファンが増えた。ヤポンスキー・コーカサス(日本のコーカサス)の誕生を夢見つ つ、幻のケフィアを日本に導入してくれた中垣技術士に満腔の感謝を捧げている。
KEFIR NEWS Volume 1 Number 3(平成5年6月3日発行)より転載
モスクワで販売されているケフィアのパケージと、望野先生の直筆です。ロシア語で書かれたケフィアの 由来についての興味深い文章を訳してくださいました。残念ながら先生は1998年に惜しまれながら永眠されました。今、私は先生の意向を受け継いで、高齢社会の在り方を長寿の郷コーカサスに倣い、わが故郷北淡丘陵地帯をヤポンスキー・コーカサスにしたいと考えています。(中垣剛典)